ののの字

行間を読むなんて言葉がありますが
文章によってカクカクで四角い「隙間」と滑らかで柔らかい「すきま」があるなあと思った。
直線的に切り取られた行間と曲線的に切り取られた行間といった感じでしょうか。
カクカクで論理的に見える文章というのは停止点が直角な感じなんですよね。ピシッと締める。
表出している文字だけではなく、そこから溢れ出す余韻がピシッという感じです。
対して、曲線の印象を醸し出す文章というのは柔らかな余韻と意識を吹き抜ける景観が流れてくる感じ。
どちらがいいかと言えば時と場合によりけりでしょう。
ただ曲線ツールなんてものを考えてしまう。直線をぐんにゃりと曲げちまうものです。
読み手の意識によって直線の空間は自在に曲がり膨らんでいくわけだから結局差異などないのかとか。
曲線は直線を含む?というか直線なんて本来存在しないとかなんとか。



技術を磨く、ということは単一で直線的な技能を臨機応変に対応できる柔軟な技能に変えること。
なんて言えるかなあ。
直線から曲線への移行、平面から空間への移行、一部から全体への移行、具体から抽象への移行。
帰納に加えて演繹も自在にこなせるようになる。とかなんとか。









タイピングにおける「スキマ」。
タイピング中にちょっとした「間」を感じます。
指捌きに関する物理的?な「間」なのか認識的な「間」なのかも分からない代物ですが。
その「間」もスピードの頭打ちの要因な気がします。
リズムが崩れるといいますか道端に転がる石につまずいて軌道がずれるといいますか。
こう考えてみて、タイピングのイメージには「車輪」が似合うなあとかちょっと思った。
指捌きの回転を上げてスピードを上げていくなどなど。
打鍵するというのは単純に見れば、上から下に指を振り下ろす動作ですが次に踏み出すための一歩、
すなわち”引き”の方が回転を上げるという意味では重要かなとかも考えてしまう。
タイピングを「車輪」とするなら運指の変更は「チェーン」とでも言うべきでしょうか。
まあこの辺のイメージは日が変われば忘れているような些細な問題ですが。



「間」という空白地帯があるからといってそこだけに意識を向けようとするのもまた違うと思う。
”単語の意味は文脈によって変わる”
だから、「間」を意識するためにはその前後の流れも必然意識を向けざるを得ないかと。
前後にある有機的なものとそこにある無機的なものが上手く交われば綺麗に指が流れるのでは。



…しかしそもそも意識できないからこそ起こり得る「間」か?
認識不能の高速域で打てば「間」を取り込んでいるような感覚もないではない。
(認識不能というのは単に気付かないだけで本当はそんな状態はないかもしれませんが。)
高速の場合かえって安定するとかそんな感じかな。滅多なことでは起こらないもの。
結局”繋ぎ”を上手く安定させないと詰まってしまう。
やっぱり”引き”かなあ。”引き”重視は次に繋がる一歩って感じがしないでもない。